日本人の「雇われ」観について。

濱口桂一郎先生のブログでは、折にふれ引き続き、雇用形態におけるジョブ型vs.メンバーシップ型の記事が掲載されています。濱口理論を支持する人々が多いなか、情緒的あるいは損得勘定的に反論する人も根強くいることが見て取れます。
本日の先生のブログでは、ジョブ型を奴隷制とまでみる人の意見が紹介されています。

そこで、「雇用関係」について私が考え方の基底としている思想を記しておきたいと思います。
それは、「働く」ことや「雇用される」ことに、わが国の人々はなぜかくも受け身的になるのか、ということです。「長時間残業をさせられる」、「職場でいじめられる」、「退職に追い込まれる」などなど、「○○される」という受け止め方があまりにも充満していることです。

労基法に違反しているような企業ならば、さっさと辞めてやる、いじめられたら殴り返して辞めてやる、過労死するほど残業しなければならない会社なら労基署に申告して辞めてやる、という能動的・自発的・自立的な行動や態度を、なぜ日本の労働者は取らないのだろうかと思っています。

欧米でもイジメがないわけではないだろうが、さほど問題にもなってはいないようです。「過労死」など欧米では考えられもしません。それは欧米の労働者は、「○○される」ことに甘んじることなく、自分の考えや生き方を主張しているからではないでしょうか。

数年前、NHKの討論番組で「過労死」問題を取り上げた際、ある人材会社のR.O.社長が、「過労死するかしないかは自己責任」という発言をしていて、多くの人々から反感を買ったことがありました。その社長は、まず第一に使用者の労働者に対する安全配慮義務に触れることなく、いきなり「自己責任ですよ」ときたので、強い違和感を覚えましたが、冷静に考えると、一つの正論を言っているとも思われます。つまり、死ぬほど働かせる使用者は当然責めを負うべきであるが、死ぬまで働く労働者も労働者だ、ということです。

私は拙ブログで幾度か提起してきましたが、労働者は企業に雇ってもらう、面倒見てもらうという「甘え」を捨てることが大事だと考えています。「雇用」とは、使用者の下に仕事があってこそ成り立つものであり、(恣意的な動きは別として)基本的には、仕事がなくなれば雇用関係は解除されて当然と考えるべきものと思います。仕事がないのに解雇せずに面倒みてよという考えこそ不自然だと考えます。

一部の労働団体やNPOなどは、使用者は仕事のあるなしに関係なく、いったん労働者を雇えば一生解雇してはならないなどという、異次元の発想をしていますが、それは労働者を護っているのではなく、労働者の能力向上意欲と誇りを奪うもの以外の何物でもありません。

もちろん、使用者が「仕事がない」とした状態が、客観的合理性があり、社会通念上相当であるかどうかということは、労働契約法に基づいて、司法府で判断されるべきものであり、使用者が好き勝手に動ける問題ではありません。

私は、濱口桂一郎先生のいう「ジョブ型労働契約」は労働者の誇りを取り戻す雇用形態だとして、支持するものであります。「普通の労働者」はジョブ型労働契約の主対象だと考えています。企業の中でさまざまな仕事を経験させ、その企業の基幹人材として育成される労働者は当然いるわけですが、彼・彼女たちは特別に有能なジェネラリストなのです。

特別有能なジェネラリストと、ある分野の仕事で腕を競うスペシャリストとが中核となって、その周辺に様々な雇用形態の労働者が混在する・・・・そういった多様性ある労働社会を再構築していくことが、これからの日本にとって重要なのではないでしょうか。

くどいようですが、労働者は企業にしがみついて「面倒みてもらっ」てはダメなのです。
中小企業の経営者や、さまざまな分野の職人さんをご覧なさい。彼らには「面倒みてもらっ」てるという卑屈さが微塵もない。どんなに経営が苦しくても、生活に困っていても、その表情には誇りが見られるではありませんか。

ジョブ型労働契約の下で、腕を磨き使用者から評価され大事にされることこそが自立した労働者であり、逆に、メンバーシップ型契約にひたすらしがみつき、屈辱に堪える姿こそが奴隷的働き方だと考えています。
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プロフィール

畠山 奉勝

Author:畠山 奉勝
1944年生まれ。電機メーカー定年後、大阪労働局監督課で指導員を担当。全国に先駆けて大学生・高校生などを対象にした若者労働法教育のレールを敷く。

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